物語の中心部分を私なりに明かします。(ただし途中で力尽きた)
ごきげんよう。
先に私の2考察を読んでいただけた方がこの記事を分かり易いかと思いますので、もし読みなさっておられないようでしたらお読みになって頂けると幸いです。
んなもん気にしねぇよ!って方はそのままどうぞ。
注意
本記事には「脱出縁日」に関する重大なネタバレがございますので、まだ「脱出縁日」を遊ばれていない方は先に遊ぶか、この記事をスルーするかしてください。良いゲームですよ。
また、本記事は永遠に未完成です。30%程度の完成度なので、「はんはん、で?・・・え、終わり?」みたいな感じになると思います。それでもよろしければ読んでみて、私の補強をしてあげてください。
「何か」への寂しさ
※「それでも」とは「祭りに関することを何も覚えていなくても」ということです。
これが難解な部分で、また楽しくもある部分です。様々な解釈ができそうですからね。
この「何か」についてはノーマルエンドの考察でもトゥルーエンドの考察でも保留とし、先延ばししてきました。
なぜなら、私流の考察における「何か」の解釈だからです。私なりの考察の上でこの解釈は成り立っていますから、考察抜きにこの何かを語ることは出来ないのです。
「何か」とは
単刀直入に言いますと「恩」です。
もちろんこれは私なりに考えての結論なので、正しいとは限りません。でも私にとっては正しいとしか思えません。
その根拠を今から書いていきます。多方向から補強していくつもりですのでのんびりとご観覧下さい。
ノーマルエンドとトゥルーエンドにおける最大の相違点は「少年が縁日からの脱出に成功しているか否か」でしょう。(勿論”わたし”の脱出の成否もあるのですが、テーマ的にこうさせて下さい)
そして、ノーマルエンドとトゥルーエンドの共通点は「少年が少女に助けられた」点です。言い換えれば、少女が少年から恩を受けたということです。その証拠に、どちらのエンドでも少女は少年に恩返しをしようとしています(一緒に帰ろうと誘う等)。
”わたし”は全然覚えていないのです。すなわち、少年から受けた恩も忘れているのです。
それでも何か寂しいということで、やはり身に沁みついているのでしょう。この後「もう一度行ってみよう」となるのは、恩がない淋しさを埋めたかったからだと思われます。要は「恩返しがしたい!」ということです。
ここまではただの当てつけです。少年についても考えてみましょう。
私はノーマルエンドを考察して「少年と少女は同じ道を辿った」という事柄が分かりました。つまり、「少年も誰かに受けた恩を忘れ、その恩がないのを寂しく思ったからもう一度縁日に来た」ということになるはずです。
恩のやり取り
※正直筆が全くと言っていいほど進まないので、手ではなく執念で書いてます。
少年が先述のような失敗をして縁日に戻ってきてしまっているのですから、少女が同じ失敗をしないようにするのは当然でしょう。
ノーマルエンドにおいて、彼なりの手段は”忘れること”でした。すべて忘れてしまえば寂しいと感じることはないという理論です。
しかしそれは失敗し、少女は恩返しをしに縁日に来てしまいました。なぜなら、自分が再び戻ってきた理由を忘れている状態だったからです。その理由とは「恩を返すため」です。
一方、トゥルーエンドではどうでしょうか。少女は少年に受けた恩を覚えたまま家に帰ることが出来たので、寂しさを感じることはありません。
これこそがノーマルエンドとトゥルーエンドの決定的な違いだと思います。
ここで名言を一つ。
「君の本当の顔は、君にしか見つけられない」
少年はかなり少女の顔を探すのを手伝いましたが、最終的に見つけたのは少女自身です。
しかし、少年自身の顔は少女に全て見つけられています。
なんだか矛盾しているように思えますが、少女の本当の顔は少年の顔と表裏一体であり、二つ合わさって初めて少女の本当の顔となる(恩を覚えている状態)・・・と考えれば、間違いでもないでしょう。
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おわり
筆者はここで力尽きました。あとは想像を働かせてください…
今回はここまでです。ご観覧ありがとうございました!
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