2021年10月2日土曜日

【エッセイ】科学は本当に正しいか【科学哲学】

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科学哲学 読書感想 哲学

 近年、科学の発展は著しいですが、このまま科学に頼り切っていいのでしょうか。科学哲学の視点から科学を見つめなおしてみましょう。

 ごきげんよう。
 今回はエッセイです。


 基にしたのはこの本。例のごとく図書館で借りてきました。

 

 読みやすさ等の主観的な感触は次の通り。

要素 :10段階評価

内容の広さ:7

文理傾向:文系寄り

文章の難しさ:5

前提知識の多さ:3

 哲学の本の割にはかなり読みやすかったです。「科学哲学」という単語に何か感じたものがある方は是非読んでみてください。

 

科学哲学は嫌われ者

 科学哲学とは、「科学とは何か」を追い求める学問です。科学によって人間はとんでもなく豊かな暮らしを送り、将来の可能性も無限大です。最近は「空飛ぶ車」も実験に成功し、着々と実用化へと近づいています。


 

 では、その「科学(ここでは自然科学)」って何なのでしょうか。科学哲学は、科学の正体を明らかにしようとする学問です。

 ところが、科学哲学は科学者から歓迎されていません。なぜなら、科学とは何か考えたところで科学の発展には一切関係しないからです。科学者からしてみれば、仮説を立てて実験をして頑張ってる横で「あの実験ってどういう意味?」ってのを延々を議論してるのが科学哲学者ですから、まあ邪魔ですよね。科学の正体を明らかにする必要はそもそもないと科学者たちは考えています。

 

科学とは何か

 なぜ哲学は科学ではなく、物理学は科学なのでしょうか。正直、「何となく科学っぽいから科学」みたいな感じで科学か否かを判断する方も多いでしょう。

 まず科学の定義となりえそうなものに、「仮説を立てて実験で正しいか証明するのが科学」というものが浮かびます。辞書での定義もおおよそこのようなものです。しかし、これには天文学や地学、気象学という「実験しない(できない)科学」の反例があります。これらは観察のみを用いて法則を見出していく科学です。

 その他、反証可能性の有無等を用いたりする等、客観的な基準を作ろうとする試みは20世紀からずっと行われていますが、全て失敗しています。つまり、科学にはっきりした定義はありません。

 

科学の信頼性

 はっきりした定義のない科学なんてものに依存したままでいいのでしょうか。
 ぱっと出る理由付けとして「今までうまくやってきたのだから、これからもうまくいく」というものがあります。しかし、これは誤りです。

 例えば、「来年も春が来るか?」という問いに対して、来ると思う人と来ないと思う人が居るとしましょう。このとき、来年は春が来ないと思っている人の方が非合理的・非科学的に思われるでしょう。なぜなら、氷河期以来春が来なかったことはないからです。この人は「今まで毎年春が来ているのだから、来年も春が来る」ということを信じていないという点で非科学的なのです。

 しかし、私たちはこの人をバカにすることはできません。なぜなら、誰も確実に未来を予想できないからです。分かっているのは「来年は春が来る確率が極めて高い」・「現時点の知識から考えると来年も春が来るのは明らか」ということだけです。超低確率を引いたり、未知の事象が起きることによって春が来なくなる可能性は否定しきれません。

 むしろ、「今まで毎年春が来ているから来年も絶対に春が来る」としか思えない人の方が非科学的ではありませんか?科学は未知なるものを明らかにして発展してきました。何か未知なるものが春の到来を左右しているのではないか、そういった疑問が科学の発展をもたらすように思います。

 

合理的とは経験的であること

 改めて、「科学的な正しさ」言い換えれば「合理性」はどこから来るのでしょうか。それは「経験」です。経験はあらゆる生物に備わっており、時に学習、時に進化という形で現れます。人間も自然から生まれた存在である以上、経験に基づくのが最も合理的なのです。

 科学は野生からすごく離れた営みに感じますが、実際は人為的に経験をしているに過ぎないのです。

 

理論選択にアルゴリズムはない

 かつて科学哲学は。自然の真理へ続く一本道をひたすらに進むとみなされていた科学を哲学やその他社会分野に応用することを目的としていました。ところがある科学哲学者が科学史に目を付け、全く一本道を進んでいないことに気付きます。そこで、科学は非常に効率的であるとする派としない派の論争が起こり、しない派が勝利しました。現在もこの派閥が中心であるため、科学には批判的です。

 さて、「理論選択にアルゴリズムはない」という言葉は、科学史に目を付けた哲学者の言葉です。言われてみれば納得する言葉です。


 例えば、ビックバン論VS定常宇宙論を挙げてみます。20年ほど続いた論争ですが、定常宇宙論では説明がつかなくなった事象(宇宙背景放射)が出たことから、現在ではビックバン論の方が正しいとされています。

 ところが、その事象が観測されるまでは定常宇宙論の方が優勢でした。「ビックバン」という名前も、元は定常宇宙論者がビックバン論者をバカにして出てきたものです。


 当時はどちらの理論でも当時存在した事象を説明することができ、同程度の理論的な問題点がありました。にも関わらず定常宇宙論が優勢で、ビックバンが勝利するまでに20年も要しました。ここから分かるのは、「同程度の理論同士を比べてどちらが良いか判断するとき、科学以外の要素も関係する」ということです。例えば権威ある科学者の言葉などです。これではとても真理まで一本道を行っているとはいえません。

 

科学哲学は不要か

 よく目にする論争です。
 科学の正しさは経験知に由来するもので、とどのつまり科学哲学は「なぜ経験が正しいと思うのか」という本能的で答えが出ない問いを考えているだけにすぎない・・・と考えると、科学哲学は不要に思えるのでしょう。
 しかしながら、学問に不要なものは存在しません。そもそも必要かどうかでするものでもありません。なので、個人的にこの論争はそもそも意味がないのではないかと思います。答えが出ない問いを考えるのが哲学ですし。
 また、世間が科学を過度に信頼しつつある中、常に批判的な目を向ける存在はあった方が良いでしょう。今の科学が暴走すると人造人間や地球破壊爆弾が生まれかねません。

 

さいごに

 科学は人間社会を飛躍的に発展させました。が、だからといって科学を全面信頼していいわけではありません。科学は本当にいつでも正しいのか考える必要があるでしょう。

では、ここまでご観覧ありがとうございました!

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